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(手机摄影存图/大概率杂物间或日常记录)

黄昏之味【文/泉镜花】

AlSiP/铝硅磷:

世间有几人,真了解黄昏之趣?


且看,大多数人,都把黄昏和夕暮,混为一谈。所谓“夕暮”,主要是指夜色渐浓、暗色弥漫之时。而“黄昏”,则既无夜色,也毫不暗淡。然而,黄昏也不是空有白昼般的光明,那样耀眼的时间。


由昼转夜,其刹那之界,由光转暗,其刹那之境,岂不正是一个“黄昏世界”的所在吗?黄昏不是暗,也不是光,更不是光与暗的混合。以光入暗,以昼入夜,刹那之间,色彩奇丽,莫名的特别之中,又实属别致的,那才是黄昏。


这独特的黄昏世界,不仅存在于光明渗入黑暗的时候,也同样存在于黑暗透出光明,这刹那的间隙里。此即拂晓。这亦是非光非暗、更非光暗混合的世界。世人总觉得,昼夜之外、明暗之外,不存在别的世界,这是大错特错。我则相信,除了“夕暮”和“清晨”,这种两极接近的感觉之外,更别有一重世界;也希望能让这黄昏和拂晓的趣味,为世人所领略。




这黄昏趣味、这拂晓趣味,也并不是单纯建立在昼与夜的关系之上的。宇宙间的一切事物之上,都有着与此类似的、微妙的世界。


例如人的行事,分善与恶,这就像是白天和黑夜;可这善恶之间,偏也有一种不可消灭、也不该被忽视的、微妙的存在。由善意落进恶意的刹那、由邪恶进入善良的瞬间,人类总在那间隙里,表现出微妙的心态和心境。


我想要描绘、想要记录的,正是前面着重讨论的、黄昏的世界。是善、是恶、是正、是邪、是快活、是不快,这些极端我统统不要。我只想把一种中间的世界、一种中和的趣味,注入文字里,呈现给人看。




たそがれの味



 世間にたそがれの味を、ほんたうに解して居る人は幾人あるでせうか。多くの人は、たそがれと夕ぐれとを、ごつちやにして居るやうに思ひます。夕ぐれと云ふと、どちらかと云へば、夜の色、暗の色と云ふ感じが主になつて居る。しかし、たそがれは、夜の色ではない、暗の色でもない。と云つて、晝の光、光明の感じばかりでもない。晝から夜に入る刹那の世界、光から暗へ入る刹那の境、そこにたそがれの世界があるのではありますまいか。たそがれは暗でもない、光でもない、又光と暗の混合でもない。光から暗に入り、晝から夜に入る、あの刹那の間に、一種特別に實在する一種特別な、微妙なる色彩の世界が、たそがれだと思ひます。此のたそがれと云ふ一種特別な世界が、光から暗に入る間に存すると等しく、暗から光に入る境、夜から晝に移る刹那の間隔に、東雲と云ふ微妙な色彩の世界があります。これも暗でもなく、光でもなく、暗と光との混合でもない、一種特別な世界です。世界の人は、夜と晝、光と暗との外に世界のないやうに思つて居るのは、大きな間違ひだと思ひます。夕暮とか、朝とか云ふ兩極に近い感じの外に、たしかに、一種特別な中間の世界があるとは、私の信仰です。私はこのたそがれ趣味、東雲趣味を、世の中の人に傳へたいものだと思つて居ります。




このたそがれ趣味、東雲趣味は、単に夜と晝との関係の上にばかり存立するものではない。宇宙間あらゆる物事の上に、これと同じ一種微妙な世界があると思ひます。例へば人の行くにしましても、善と惡とは、晝と夜のやうなものですが、その善と惡との間には、又滅べからず、消すべからざる、一種微妙な所があります。善から惡に移る刹那、惡から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私は、重にさう云ふたそがれ的な世界を主に描きたい、冩したいとも思つて居ります。一種中間の世界、一種中間の味ひを、私は作の上へ傳へたいとも思つて居ります。





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